老後の生活で、ふと何のために生きているのかと感じる時がある。
少なくとも、人のためになることをやっていれば、生きている価値があるのではと思い、今現在、人のためになっていることは何だろうと、考えてみた。
妻にとって
- 一緒に生活する妻にとって私は、妻が生きるために必要不可欠な存在ではないかと思っている。つまり、存在自体が必要とされていると思い込んでいる。
- もちろん、私にとっても妻は生きる上で存在自体が必要不可欠だ。
- そして具体的には、日々の出来事を聞いてあげることなどは、妻が私を必要とすることの一つだ。
- その他にも、子供たちが家を出て夫婦二人の生活になった今、一人ではないということ自体が、お互いを必要とする理由だろう。
子供にとって
- 子供が自立するまでは、育ててくれる存在として私は、子供にとって重要な存在だった。
- 子供が自立し、結婚して独立した家庭を作ってからは、私は子供にとって特に必要不可欠な存在ではない。だが里帰り出産などの際には、妻がパートで仕事をしているせいもあり、家事に関していろいろサポートした。
- もちろん、子供にとって親がいて何かあればサポートしてもらえるという安心感は、子供が親を必要とする大きな理由の一つだろう。
- 子供が既に独立した家庭を持って、自立しているとはいえ、私はこれまでの経験を活かして、何かの際に子供たちにアドバイスをしてあげられる存在ではないかと、少し思っている。
親にとって
- 一人実家で暮らす親にとっては、時折しか帰省することは出来ないが、それでも私が行くのを心待ちにしている親にとっても、私の存在は役立っているのだろう。
- 実家に帰れば、ほこりの溜まった家の掃除や、雑草の生えた畑の世話など、それなりに役に立っている。
孫にとって
- 孫はまだ小さいので、まだ私を必要とすることは無いが、それでも会えば私を認識して笑ってくれるので、将来的には親には出来ない接し方で、孫の役には立てるのではないだろうか。
友達にとって
- お互い様の話だが、時折会って一杯やる友達は、不可欠ではないが、それなりにお互い必要な存在だと思う。
- ゴルフやテニスをするにしても、一人では出来ないので、お互いに必要とする存在だ。
まとめ
自分が周りの人達にとって、必要とされているのかを考えてみた。
妻にとって以外は、不可欠とは言えないが、必要とされているのではないかと思う。
社会的な活動はほとんどしていないので、社会的には必要とされていないと思うが、社会自体がその様な人たちの集合体ではないだろうか。
あまり、深く考えない方が、人生を楽しめると思っている。